『モモ』とヘーゲル。分断を繋ぎ高みへ導く絆。
おはようございます。
本日は諸賢の皆様と喜びを共有したく。
100分de名著100シリーズ目おめでとうございます!
本の読めない本好きの味方100分de名著が、100シリーズ目でモモ(百)を取り上げる。
トリプルdeハンドレッド!
前回テーマのカント著『純粋理性批判』→前々回の吉本隆明『共同幻想論』と洋和最難関古典を通った後の童話の『モモ』が染み入ります。
(ファン絵まで描いちゃう)
この記事は番組の感想ではなく『モモ』の本を読んだ感想です。
『モモ』NHKテキストの感想もあるのでよろしければ。
『モモ ミヒャエル・エンデ 100分de名著 「豊かな」時間とはなにか?』 - 読書でござる🍀
今回私の考える『モモ』のキーワードは「分断と絆」です。
多くの対比構造
『モモ』のお話は至るところに対比がつかわれています。
まず章のタイトルです。
「1章 大きな都会と小さな少女」
「7章 友だちの訪問と敵の訪問」
「14章 食べ物はたっぷり、話はちょっぴり」
21章分のタイトルのうち6.11.12.19.20章以外は対義語が使われています。
(それらの5つの章も原書のドイツ語では対義語が含まれているのかもしれません。)
次は登場人物です。
つぎはぎだらけの服を着た一人の小さな非力の浮浪少女モモと、帽子やスーツをおしゃれに着こなす時間貯蓄銀行に勤めるのたくさんの灰色の男達。
灰色の男たちとマイスター・ホラ。
若く器量の良いおしゃべりなジジと、年老いて寡黙なベッポ。
100分de名著『モモ』テキストには、前半のジジ、ベッポ、モモの3人組と後半のカシオペイア、マイスター・ホラ、モモの3人組みも対照的に描かれているとありました。
コントラストを効かせて登場人物の個性を際立たせてあります。
こんにちのキャラクター設定ではめずらしくはありませんが、〈さかさま小路〉〈どこにもない家〉の設定も含めて対比を意識しての描写と言えると思います。
そしてこの多くの対比、対立、分断構造同士を結ぶのが、モモという存在なのです。
モモは分断をつなぐ絆
モモと言う女の子は、不思議な力を持っています。
彼女に話を聞いてもらうだけで話者に新しいアイディアが湧いてくる「聴く力」です。
彼女は、アドバイスしたりなど能動的な行動は取りません。
ただ静かに聞くだけなのです。
最後に灰色の男たちと対決となりますが、その時でさえ彼らはただ自滅していきます。
モモという存在の前では、本来あってはならない者である灰色の男たちの本質が表に出てきてしまうのです。
それだけではありません。
その灰色の男たちは最期には
「いいんだーーこれでいいんだーーなにもかもーーおわったーー」
とうなずくのです。
灰色の男たちは自分たちが消えることを「いいんだ」と肯定するものを、モモの存在によって、自分たちの中から見つけ出したようにみえます。
現実世界と〈どこにもない家〉を繋ぎ、マイスター・ホラと灰色の男たちの間にあって、灰色の男たちでさえ自らが消えるのを肯定するより良き世界へ導くモモ。
対立するテーゼとアンチテーゼがぶつかり合うことによって、それらを超越するより良いジンテーゼが誕生することを「アウフヘーベン」と呼ぶそうです。
モモという存在がアウフヘーベンそのものだなぁと思ったりしたのでした。
ちなみにこのたび
100分de名著100シリーズ目を記念して文庫本を買いましたが…
古本で見つけた大きい子もついお迎えしてしまいました…(笑)