
久しぶりに有島武郎『一房の葡萄』を読み直しました。
先日息子の問題集に出題されまして、
(私も昔問題に出てたなぁ)
と思い出し、岩波文庫版を買ってみたのでした。
大変懐かしい気持ちになりました。

Kerstin RiemerによるPixabayからの画像
あらすじ
横浜の山の手の国際色豊かな小学校に通う私は、絵を描くのが好きな日本人の男の子です。
ある日、クラスメイトのジムが持っていた舶来の固形絵の具がどうしても欲しくて盗んでしまいました。
罪はすぐクラス中にばれ、先生のところに連れて行かれます。
しかし先生は私を責めません。
窓から取れるブドウを一房手渡してくれます。
そして次の授業は出席せずこの職員室にいるよう言うのです。
次の日、先生の取りなしでジムと私は仲直りし、先生は一房のぶどうのを半分に分け、ジムと私にくれるのでした。
私は、その時の先生の白い手と紫のブドウの色が忘れられない、というお話です。

PexelsのTijana Drndarskiによる写真
有島武郎の通った学校の一つに横浜英和学校があります。
このお話では白と紫が印象的ですが、校歌や校章にもこの2色が使用されています。

PexelsのFrank Hillによる写真
色にこだわり
紫と白以外にも色の描写が頻出し、有島武郎がこの作品を色にこだわって書いたことがわかります。
通りの海添いに立って見ると、真青な海の上に軍艦だの商船だのが一ぱいならんでいて、煙突から煙の出ているのや、檣から檣へ万国旗をかけわたしたのやがあって、眼がいたいように綺麗でした。僕はよく岸に立ってその景色を見渡して、家に帰ると、覚えているだけを出来るだけ美しく絵に描いて見ようとしました。けれどもあの透きとおるような海の藍色と、白い帆前船などの水際近くに塗ってある洋紅色とは、僕の持っている絵具ではどうしてもうまく出せませんでした。いくら描いても描いても本当の景色で見るような色には描けませんでした。
ジムというその子の持っている絵具は舶来の上等のもので、軽い木の箱の中に、十二種の絵具が小さな墨のように四角な形にかためられて、二列にならんでいました。どの色も美しかったが、とりわけて藍と洋紅とは喫驚するほど美しいものでした。
ナイフで色々ないたずら書きが彫りつけてあって、手垢で真黒になっているあの蓋を揚げると、その中に本や雑記帳や石板と一緒になって、飴のような木の色の絵具箱があるんだ。そしてその箱の中には小さい墨のような形をした藍や洋紅の絵具が……僕は顔が赤くなったような気がして、思わずそっぽを向いてしまうのです。
「昨日の葡萄はおいしかったの。」と問われました。僕は顔を真赤にして「ええ」と白状するより仕方がありませんでした。
「そんなら又あげましょうね。」
そういって、先生は真白なリンネルの着物につつまれた体を窓からのび出させて、葡萄の一房をもぎ取って、真白い左の手の上に粉のふいた紫色の房を乗せて、細長い銀色の鋏で真中からぷつりと二つに切って、ジムと僕とに下さいました。真白い手の平に紫色の葡萄の粒が重って乗っていたその美しさを僕は今でもはっきりと思い出すことが出来ます。
藍と紅を混ぜると葡萄の紫色ですね。
ところで固形水彩絵の具と聞いてすぐ、
イギリスの老舗絵具会社ウィンザー&ニュートン社を思い出しました。
しかし調べてみると、シュミンケホラダムなど、
有島武郎の時代からある会社は少なくありません。
うーむ、彼が欲しかった色を見てみたかったなぁ。
ちなみに下記は私が作ったウィンザー&ニュートンのカラーチャートです。*1
発色がとても素晴らしい絵具です。
また、左下のローズマダーなど、バラの香りのする絵の具もあるのです。
優雅ですね。

先生の髪型は
ぶどうをくれた先生について私の疑問は2つです。
- 日本人なのか外国人なのか。
- ショートカットなのかボブヘアなのか。
1ですが、横浜英和学校が女性の宣教師によって創立されているインターナショナルスクールだったことから、先生も生徒も外国人女性が多くこの先生は外国人なのではないかと想像しています。
有島武郎入学年は1884年。
ペリー来航の1853年から31年、学校設立から4年。
英語で授業が可能な日本人女性教師が存在するのは難しそうです。
何か書きものをしていた先生はどやどやと這入って来た僕達を見ると、少し驚いたようでした。が、女の癖に男のように頸の所でぶつりと切った髪の毛を右の手で撫であげながら、いつものとおりのやさしい顔をこちらに向けて、一寸首をかしげただけで何の御用という風をしなさいました。
2ですが、私の予想はショートカットです。
上記リンク先の学校の紹介に、女性の先生が二人掲載されています。
特に明治37年から昭和13年までの35年間校長を務め現在の学院の基礎を築いたオリブ・I・ハジス先生がショートカットでいらっしゃるんです。
有島武郎が『一房の葡萄』を発表したのは1920年(大正9年)。
有島武郎入学の1884年にはいらっしゃいませんが、執筆にあたり取材として母校を訪れ、ハジス先生に会われモデルにした可能性があります。

Marc BenedettiによるPixabayからの画像
終わりにひと言

僕のポッケットの中からは、見る見るマーブル球(今のビー球のことです)や鉛のメンコなどと一緒に二つの絵具のかたまりが掴み出されてしまいました。
窃盗は罪ですが、この描写で、ああ本当に幼い男の子なのだと目頭が熱くなりました。
我が家の息子のポケットにもビー玉やおもちゃが入っていそうですもの。
まぁ、かあちゃんとしてはジムの絵具は遠慮したいですが…。
そういう時も短髪の白いリンネルの先生のように接することが出来たらいいなと思います。