5分で『はみだしの人類学 ともに生きる方法』松村圭一郎著(2020年初版)
面白かったです!
よかった!よかったですー!
先日の『スマホを捨てたい子どもたち』といい、人類学、かなり熱いです。
著者の大学の講義聴いてみたいなあ。
何が面白かったか
文化人類学と哲学なら、まだお話に共通点がありそうでしょう?
でも、異文化の話をしているはずなのに、
「わたし」の境界の問題は、自己以外の遺伝子を攻撃して健康を保つ免疫学。
たった1つのほんとうの自分などおらず、個人の中に複数の自分が存在するという「分人(ぶんじん)」の概念は脳科学を思い起こさせます。
離れた分野をつなぐ画期的な概念だなあと思いました。
(すみません、脳科学で、タイミングによって使われている脳の部位が異なる、つまりタイミングによって自分が別人であるともいえる・・・みたいな話をどこかで聞いたのですが、ソースが思い出せません。見つけ次第追記します。)
概要
マクラが長くなりました。
この『はみだしの人類学』は、文化人類学という学問を理解するための「学びのきほん」を2時間で読める程度にまとめた本です。
人類学
人類とその文化を研究する学問。生物としての観点から人類の起原・形質・進化などを研究する形質人類学(自然人類学)と、文化の観点から研究する文化人類学とに大別される。
人類の社会・文化の側面を研究する学問。生活様式やものの考え方、言語や慣習など、多様な人間の諸文化を、フィールドワークによって記録、記述し、それを比較研究して、文化の側面における人類の共通の法則性を見出そうとするもの。アメリカにおいて発達した。
*ドグラ・マグラ〔1935〕〈夢野久作〉「たとへば文化人類学(ブンクヮジンルヰガク)、先史考古学、原始考古学なぞ云ふ学問は学術上無価値のものと云へやうか」
(日本国語大辞典より)
(『ドグラ・マグラ』内で学術上無価値とか言われているんですね、面白い。)
この『はみだしの人類学』では、「つながり」と「はみだし」をキーワードに、人類学の歴史と基本概念をていねいに説明されています。
「つながり」には2種類あり、存在の輪郭を強化する「共感のつながり」と、存在の輪郭が溶けて「はみだし」たように働く「共鳴のつながり」があります。
「共感のつながり」はSNSで”いいね”をもらった時起こります。
褒めてもらって嬉しいけれど、それは自分で自分を褒めた時とは違う、他者からの賞賛特有のもののはずです。
「共鳴のつながり」は「わたし」の中で他者のカテゴリーが増えると起こります。
出会った時には「エチオピア人」だけだったのが、「友人」「アムハラ語の先生」「ご近所さん」とカテゴリーが増えていく。
そのたびに「わたし」と同じに感じる要素も増えます。
そしてお互いの要素が交じり合い、「わたし」も「あなた」も出会う前とは違う何かに生まれ変わっていきます。これが共鳴です。
筆者はこれからの他者との向き合い方をこう締めくくっています。
「わたし」や「わたしたち」が変化するからこそ、周囲の人や環境も、自分自身も新たな目で捉え直すことができる。脅威に感じられた差異が可能性としての差異に変わる。それこそが、様々な差異に囲まれ、差異への憎悪が溢れるこの世界で、他者と共に生きていく方法なのではないか。
著者像
松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)
1975年、熊本県生まれ。京都大学総合人間学部卒。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。岡山大学文学部准教授。専門は文化人類学。エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークを続け富と所得と分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎなどについて研究。
著書
『所有と分配の人類学』『基本の30冊 文化人類学』『うしろめたさの人類学』他
『100分でメディア論』でも出てきたサイードのオリエンタリズム論。
よくこんなことに気付けたと驚愕しきりです。
発見の経緯が気になります。
また、2つの違うものが交じり合ってより良いものが誕生というところ、
『モモ』のところでも言っていたヘーゲルの「アウフヘーベン」に似てる気がします。
遠い昔の倫理の授業の記憶に頼らず、改めてヘーゲルの本も読んでみたいです。